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42 って凄い人でした

昨日、大ちゃんの帽子に「42」のロゴがありなんだろ?
と調べてみたら

近代メジャー初の黒人プレーヤー「ジャッキー・ロビンソン」の背番号でメジャー30球団永久欠番だそうだ。
そのジャッキー・ロビンソンがデビューして60周年が4/15であり、この日だけは「42」を付けてもいいそうだ。
人種問題のなか、白人以外の選手の先駆者としての功績は成績と共に歴史を変えたんですな。
詳細はOpenから


1947年4月15日、メジャーリーグ史上初の「黒人選手」がデビューした。彼の名は「ジャッキー・ロビンソン」。今となっては当たり前のように黒人選手が活躍していますが、彼が人種差別の壁を破らなければ現在の、バリー・ボンズや、サミー・ソーサも、メジャー記録の「755本塁打」を放ったハンク・アーロンもいなかったかもしれません。
 
 現在はロサンゼルスを本拠地としているドジャースが、ニューヨークのブルックリンに本拠地を置いていた、ブルックリン・ドジャースに入団したジャッキーだったが、ジャッキーが入団した事で、黒人の選手とはプレイ出来ないと、数人の白人選手はチームを後にした。さらに相手チーム、ファンからも心無い野次が浴びせられ、対戦相手からは対戦拒否と、人種差別は想像を絶していました。
 
 故意のスパイクでユニフォームが裂け流血した事もありましたが、ジャッキーは常に紳士的な態度をとり、プレイで周囲を黙らせていきました。世論もそんなジャッキーを徐々に認めていきました。1年目のこのシーズンは、2割9分7厘、12本塁打、29盗塁でこの年から制定された新人王に選ばれました。現在新人王が「ジャッキー・ロビンソン賞」と言われる由縁は初代新人王がジャッキーだったことからきています。
 
 もちろんジャッキー1人の力では、人種差別の壁は破れなかったと思います。周囲の反対をよそに契約を推し進めたドジャースの当時オーナー、「ブランチ・リッキー」、オーナー会議で15対1で反対されながら、ジャッキーがプレイする事にGOサインを出した、当時のコミッショナー、「ハッピー・チャンドラー」、対戦拒否の場合は出場停止処分に処すと強硬な態度を貫いた、当時のナショナルリーグ会長「フォード・フリック」、彼らの内1人でもいなかったら、ジャッキーをはじめ、黒人選手がメジャーリーグでプレイする事はなかったかもしれません。
 
 1997年4月15日、ジャッキー・ロビンソンがデビューして50周年のこの日、ドジャースvsメッツのゲームで5回終了後、当時のアメリカ大統領、「クリントン大統領」が記念式典に参加し次の言葉を残しました、「すべてのアメリカ人は、ジャッキーに感謝しよう。彼のおかげで、アメリカはより強く豊かな国になれた。次の世代の明るい未来のために、彼の遺産を大切にしていこう」と。
 
 1962年には殿堂入りし、さらにジャッキーのつけていた背番号「42」はメジャー全チームで永久欠番になりました。

 「4月15日はジャッキー・ロビンソンの日」とされ、ジャッキーの残した功績がいかに大きいかがうかがえます。

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